五花街の紹介・沿革

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mansyuu
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登録日時: 2023年6月03日(土) 00:38

五花街の紹介・沿革

投稿記事 by mansyuu »

 
現在、京都には祇󠄀園甲部、宮川町、先斗町、上七軒、祇󠄀園東の5つの花街があり、

これを総称して五花街(ごかがい)と呼んでいます。
 
祇󠄀園甲部

江戸・寛永年間から八坂神社の門前で茶屋街として栄えてきました。その後、明治14(1881)年、当時の京都府知事により、祇󠄀園町が2つに区分され、新しく祇󠄀園甲部としてスタート。京都市東山区の東は東大路通、西が鴨川、南北は建仁寺から新橋通に囲まれた、重要伝統的建造物群保存地区の祇󠄀園白川地区を含む京都で最も大きな花街。お茶屋、料亭などの伝統建築と石畳みの格調高いたたずまいが特徴。舞踊は京舞井上流。芸舞妓による春の舞踊公演「都をどり」は、第1回京都博覧会関連事業として明治5(1872)年に三世井上八千代によって創始され、今日に至っています。秋の舞踊公演は「温習会」。紋章は八個のつなぎ団子に「甲」の字。
 
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宮川町

鴨川左岸、京都市東山区の宮川筋二丁目から六丁目のあたりに、いかにも伝統の花街らしいはんなりとした風情の街並み。地名の由来は、四条以南の鴨川が八坂神社の神輿洗い神事が行われるために宮川と呼ばれていたことなどにちなむと伝わっています。江戸時代初期の慶長年間、四条河原発祥の出雲阿国(いずものおくに)の歌舞伎踊りの時代に始まり、以後、歓楽街となって発展した当地で、歌舞伎などの芸能と深くかかわりながら茶屋街として発展。舞踊は若柳流(わかやぎりゅう)。春の公演は「京おどり」、秋には「みずゑ會」が開かれます。紋章は、三つ輪。明治時代、寺社と町屋と花街の三者の結合をイメージして定められたと。
  
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先斗町

京都市中京区の四条通から三条通一筋南まで通じる南北500メートルほどの鴨川右岸に沿った細い通り。そこに、紅殻格子(べんがらこうし)のお茶屋や置屋、飲食店などが立ち並び、東西の無数の路地には飲食店も多く心浮き立つ風情。語源も諸説ある先斗町ですが、正徳2(1712)年ころから、鴨川大普請で鴨川と高瀬川の間に作られた新河原町通に、高瀬舟の船頭や旅客目当ての旅籠(はたご)屋などができたことが始まりとされ、幕末から現在のような花街となって繁栄してきました。舞踊は尾上流(おのえりゅう)。春(5月)に「鴨川をどり」(明治5年創演始)、秋には「水明会」が開かれます。紋章は鴨川に接する花街らしく舞い飛ぶ千鳥。
 
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上七軒

京都市上京区の北野天満宮に近接し繁華街にある他の花街とは違う落ち着いた雰囲気が漂う。室町時代中期(15世紀半ば)に北野天満宮再建に使った余材で7軒の茶屋が建てられたのが起源とされ、天正15(1587)年、北野大茶会を催した豊臣秀吉がその名物の御手洗団子を大いに気に入り茶屋株を公許して以降、茶屋街となったとされています。主に京都を代表する絹織物産地の西陣と結びつきながら、独特の格式と風情の花街として発展してきました。舞踊は花柳流(はなやぎりゅう)。春の公演は「北野をどり」、秋には「寿会」が開催されます。紋章は秀吉のエピソードにちなみ、まるく交差する五つ団子。
 
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祇󠄀園東

京都市東山区の東大路通と花見小路の間で四条通北側の通り三本(東富永町・中末吉町・新橋)にまたがり、京都を代表する繁華街に位置。明治14(1881)年、当時の京都府知事により祇󠄀園町が2つに区分され、膳所藩京屋敷跡から再出発し、その後、「祇󠄀園東新地」を経て祇󠄀園東となりました。近代的な風景の中に、伝統的なたたずまいのお茶屋の建物が、当地の氏神である赤い鳥居の「観亀神社」と並んでしっとりと建つ姿が印象的。舞踊は藤間流。「祇󠄀園をどり」は京都花街で唯一秋に行われる舞台公演、夏には長唄、清元、お囃子などの発表会「ゆかた会」も開かれます。紋章は八個のつなぎ団子。
 
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